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弓矢裁判、名古屋高裁を傍聴しました【05.10.27】

堂々たる弁論に、思わず拍手したくなりました

コスモス畑もいまが満開です26日午後、名古屋高裁で弓矢伸一先生への人権侵害を争う「弓矢人権裁判」の口頭弁論がありました。この裁判のいちばんの見どころは、部落解放同盟の無法な教育への介入、それにまったく言いなりになっている三重県教育委員会、その犠牲にされた弓矢先生と故永井校長、これらの登場人物が一堂に会して司法の審判を受ける、というところです。
県教委、解同の弁護士は、「弓矢は差別者だ、自分の住む自治会が同和地区といっしょだからこれを嫌って、自治会分離運動をすすめた」との理屈を、相変わらずまくしたてました。
これに対して弓矢弁護団は、「私人間のちょっとした会話の中での、不適切な言葉をいちいちやり玉にあげて、何日も何ヶ月も糾弾したりすることは絶対に許されない」「弓矢先生がプライバシーも名誉も何もかも奪われて、解同や同和推進教員の意のままにされたことは、とんでもないこと」と、迫力に満ちた弁論を展開しました。
私はこの弁論を聞いていて、胸がスーッとしました。下手なドラマや芝居より、ずっと素晴らしい感動の場面でした。
裁判は12月6日に最終弁論で結審し、来年には判決が予定されています。必ず勝ってほしい、全国的にも異常な三重の「人権教育」の本質を暴き、不当な介入を止めさせる絶好のチャンスとなることを願います。

9条の会例会、戦争遺跡を学ぶ

9条の会の学習会で話す岩脇先生25日夜、文化会館で「9条の会鈴鹿」の例会が開かれ、歴史教育協議会の岩脇先生の「鈴鹿にも戦争遺跡があった」という話を聞きました。
鈴鹿市はその誕生そのものが「軍都」としてであり、戦争のいちばんピークだった1942年に市ができたという歴史的事実は、市内に多く散在する「戦争遺跡」とともに、将来にわたって語り継いでいかねばならない、との先生や参加者の思いがつぎつぎ話されました。
私も子どもの頃に「飛行場」へ遊びに行って、滑走路跡を走り回ったこと、父母が若いときに飛行機に木の枝をかぶせてカムフラージュする仕事をしたということなどを発言しました。
岩脇先生は、鈴鹿が四日市や津、伊勢のように大空襲に遭わなかったのは、昭和17年という遅い時期にできたので、アメリカのリストに載っていなかった、という説を述べられました。11月19日には、鈴鹿の戦争遺跡を見学して回るツアーが予定されています。

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