自己紹介

略歴

1953年(昭28) 1月 鈴鹿郡深伊沢村伊船(現鈴鹿市伊船町)に生まれる
1959年(昭34) 4月 同鈴峰村立深伊沢小学校に入学
1965年(昭40) 4月 同小卒、組合立鈴峰中学校に入学
1969年(昭43) 4月 同中卒、三重県立神戸高校普通科に入学
1971年(昭46) 4月 同高校卒、国立静岡大学人文学部に入学
1972年(昭47) 10月 日本共産党に入党
1975年(昭50) 4月 大学卒、鈴鹿市役所に就職
1977年(昭52) 12月 結婚
1986年(昭61) 12月 市役所を退職
1987年(昭62) 4月 鈴鹿市議会議員に立候補、当選
1991年(平3) 4月 同2期目当選
1995年(平7) 4月 同3期目当選
1999年(平11) 4月 同4期目当選
2003年(平15) 4月 同5期目当選
2007年(平19) 4月 同6期目当選
2011年(平23) 4月 同7期目当選
2015年(平27) 4月 同8期目当選、現在に至る

住所・家族

住所

鈴鹿市伊船町2751
(東名阪鈴鹿インターより1キロ、Cバス「伊船新田」バス停前)

TEL

0593−71−0423

FAX

0593−71−2469

家族

妻(元中学教員) 母 長女(結婚し津市に在住) 長男(結婚し別棟に一家5人で住む) 二男(東京在住)

私の生い立ち、そして今

1.高校を出るまで


小学校へ入学。弟と記念撮影(1959年)

私は鈴鹿の山、入道ヶ岳のふもとに広がる扇状地の中の農村集落、伊船新田に生まれました。当時はほとんどが農家という中で、わが家は祖父が「指物屋」(建具職人)で、父親は国鉄に勤めるサラリーマンという、ちょっと違う家でしたが、田畑も自給分は作っていました。今でもお年寄りには、「石田」というより「新田の指物屋」と言った方が分かってもらえます。小さい頃の思い出は仕事場の材木の香りで、お九度さんや風呂の焚き付けはいつも「かんなくず」でした。

弟が生まれる5才までは「一人っ子」で育ち、内気でひ弱な子どもでした。本が好きで父親が毎月買ってきてくれる「少年画報」などの漫画雑誌が楽しみでした。小学校へ入っても、給食が早く食べられず、運動会でも目立たない、人前で話せない、しょっちゅう風邪を引くという情けない少年でしたが、それでも友達と野山を遊びまわっているうちに、だんだん丈夫になってきました。

中学校ではブラスバンドクラブでがんばり、トランペットなどを担当しました。一方、友達の影響で高校にかけて真空管ラジオやステレオアンプ作りに夢中になり、スピーカーボックスまですべて手作りのセットを作り上げました。


高校で合唱部に。「鈴鹿山麓男声合唱団」(1970年)

神戸高校に入ると片道10キロの自転車通学、それも往きは下り坂、帰りは上り坂の地道を毎日通ううちに、ようやく背も伸び体力もついてきて、バイクの免許を取ると行動範囲も広がり、四日市や津の友人の家まで泊まりに行くようになりました。性格的にもだんだん積極性が出てきて、大学進学を「自分を変える」チャンスにしよう、家から離れてみたいと考えるようになりました。そして合格した中で一番温かくて楽しそうに見えた、静岡大学に入学を決めたのです。

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2.大学、そして日本共産党との出会い


寮祭の演劇に出演。楽しい毎日でした(1971年)

静岡大学は当時、町なかから日本平の近くの山に移転して日も浅く、しかも全国的な学園紛争のまっただ中という混沌とした雰囲気でした。のんびりした田舎からいきなり刺激たっぷりの大学に放り込まれて、最初は何が何だか分かりません。片山寮という男女合同・定員400人の寮に入ったのですが、ここはすべてを学生が運営する「完全自治寮」で、しかも旧制高校以来のバンカラの気風も残っていて、毎日が新しい発見の連続でした。

キャンパスは立て看・ビラ・アジ演説で騒然とし、勉強という雰囲気ではありませんでした。教養部の学生自治会を暴力集団が支配していて、白昼から暴力が横行していました。
また講義に出ると、経済原論の先生がいきなり「ブルジョア経済学」の批判から始めるのでびっくり、労働者階級という言葉が新鮮に感じました。なにか目の前がパーッと開けていくような日々でした。


人文学部学生自治会副委員長。学生運動に明け暮れる(1973年)

キャンパスを支配する暴力集団に、殴られても脅されても堂々と学園民主化を主張してがんばる先輩方がいました。私は昼はキャンパスで、夜は寮で、先輩や新しい友人たちと毎日語り合い、暴力集団から学園を取り戻す運動や、また当時の大問題だった「沖縄返還」運動やベトナム戦争反対運動に関心を深めていきました。これが私の、日本共産党との初めての出会いでした。
1年生の7月、民主青年同盟に入り、その秋には自治会選挙で暴力集団に勝利、私は寮自治会の役員になり「活動家」の道に踏み出し、翌年10月には日本共産党の一員となりました。そしてその年末、40名の大躍進を勝ち取った総選挙のたたかいに参加し、政治が変わる、社会が変わる、その現場・最前線にいる感動を味わったのでした。

大学の4年間は、こんな活動に明け暮れていて、勉強の方は低空飛行でなんとか卒業しました。しかし、多くの友人、先輩後輩、先生などとの出会いは、今でも私の大きな財産です。

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3.就職、結婚、そして議員に

卒業に当たって、就職のことをいろいろ考えましたが、恩師が「公務労働」という本を貸してくれて、「住民のために働く」労働者=地方公務員、「これだ」と思い、あちこちの試験も受けましたが、わが故郷・鈴鹿市の市役所に行くことになりました。
最初は「耕地課」という職場で、圃場整備(耕地整理)や、鈴鹿用水の管理などで現場へよく出る仕事でした。同時に職員労働組合の青年婦人部や執行部の役員にも出て、また「男女差別裁判」をたたかう市職員・山本和子さんを支援する活動もすすめました。
地域の青年労働者と学習サークル「勤労者通信大学」にも参加、いちおう「経済」専攻だったので、チューター役をつとめました。時々県全体で泊まりの「スクーリング」というのがあって、そこで四日市から参加していた服部喜代子という新米教師と知り合い、一年ほどで結婚となりました。


市役所で最初の仕事は鈴鹿用水の管理(1975年)

市職労青年部の仲間と。今はみんなエライさん。私は議員に(1976年)

新婚のころ。もう銀婚式をこえました(1977年)

1980年夏、組合の民主化めざし「超党派」の仲間と役員選挙に出て、鈴鹿市職労初の対立選挙となりましたが、2対1の得票差で敗北。秋の人事では多くが「とばされ」て、私は家の近くの深伊沢出張所・公民館に異動となりました。ここで私は「住民のために働く」実践に取り組み、子ども会から老人会、若奥さんの子育て講座、スポーツ大会など、楽しみながら4年半を過ごしました。その後は市立図書館に異動、この仕事も大変おもしろく、どうせなら「司書」の資格を取ろうと近畿大学の通信教育部に入り勉強していましたが、もう少しのところで退職となったので、私の正しい最終学歴は「近畿大中退」です。


初出馬の「事務所びらき」馬場県委員長の激励を受ける(1987年)

1986年秋、急に党の現市議が次は出ないことになり、私に白羽の矢が立ちました。いろいろと悩んだり、親族の反対にもあいましたが、「住民のために働く」初心をつらぬこうと決心、12月に市役所を退職しました。そして、翌年4月の選挙まで無我夢中で活動、アッという間に投票日となり、意外にも13位といういい成績で初当選となりました。保守的な田舎町で、共産党と聞いてビックリというような土地ですが、先祖代々のつながりに加えて、出張所の仕事などで仲良くなった住民の皆さんがしっかり応援してくれました。もちろん、党の仲間も必死でがんばってもらいました。

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4.議員活動は8期目、毎回質問に立ち一般質問は114回を超える


本会議での初めての質問。以来毎回質問に立つ(1987年)

こうして34歳で市議会議員となり、議員活動をスタートしましたが、私の場合はもともと職員として通っていた市役所に、肩書きを「特別職公務員」に変えて通うという感じで、民間の人よりは違和感なく活動を始めました。それから7期28年を経ていま8期目、いつの間にか鈴鹿市では最古参の議員になりました。その間、議会には皆出席、正規の会議(本会議や委員会)には休むことなく、今日まで活動できました。また定例議会での質問は、一度も欠かさず行なってきました。のべ114回、質問に立ったことになります。(2015年9月まで)その内容は膨大になりますので、議会HPの議事録を見てもらうとして、各期ごとの思い出に残る問題を、下記にあげておきます。

1期目

三宅町のゴルフ場建設について「1戸10万円」買収を暴露して追及、ストップさせる。自由が丘団地に公園建設を実現。

2期目

学童保育を「公設民営」で市の施策にさせる。場外舟券売場計画を撤回させる。乱脈「食糧費」を追及。

3期目

またも場外舟券売場、つづいて場外馬券売場計画を撤回させる。プラスチックゴミの分別収集を実現。

4期目

コミュニティバス(Cバス)を実現。上水道への長良川河口堰からの導水計画を先送りにさせる。四日市市との「大合併」に反対。議会で否決する。

5期目

入札改革で新庁舎建設費を10億円以上引き下げる。
国保税2年連続値下げさせる。
水道水源保護条例制定。

6期目

上水道への長良川導水ストップ、過大な計画を是正させる。中学校の完全給食へ実現のメドつける。生活保護不正支給事件を追及する。

7期目

中学校給食センター建設・15年5月より給食スタート。土地開発公社の塩漬け土地の処理すすめる。市長など特別職の特権的退職金を引き下げ。住宅リフォーム助成事業を実施。

いろいろな問題を取り上げ、住民とともに運動しながら切実な願いを実現してきました。日本共産党市議団は今期、3名に前進し正式な「会派」になりました。この力をいかして、さらに住民が主人公の市政にむけて頑張ります。


第18回党大会に参加(1987年)

金太郎学童保育所が新築され喜ぶ子どもたちと(1994年)

コミュニティーバスが通り、生活が便利になりました(2000年)

「鈴鹿のおいしい水を守る会」で署名運動(2002年)

毎年、市長に予算要求を出します(2004年)

たまには頭と体のリフレッシュ。年金組合の皆さんと八ヶ岳登山(2003年)

完成した市庁舎(2005年)

孫5人と山登り(2011年)

宮城県へ震災救援ボランティア(2011年)

シティマラソン大会で鈴鹿サーキットを完走(2010年)

党市議団3議席に(2015年)

毎年、田んぼでコメを作っています

 

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